豊川市小坂井地区は

 徳川家 葵の紋 発祥ゆかりの地

(こざかい葵まつり「武者凱旋行列」出陣式の模様)

 水戸黄門さまの印龍を特出さなくても、徳川家の家紋が三⊃葉葵であることを知⊃ている人は多いことと思います。でも、この家紋が決められた背景には約470年前の小坂井地域での出来事が大きく関わっていたのです。それでは、小坂井地域が葵の紋発祥ゆかりの地といわれる、その理由をご紹介しましょう。
 享禄2年(1529)岡崎城主松平清康(徳川家康の祖父)と、東三河の吉田城主(豊橋市)牧野信成との戦の折に、当時の伊奈城主(小坂井地区)であった本多正忠は清康軍に参加し、これに勝利しました。
 その祝宴のため、清康を伊奈城へ招いた正忠は城内の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ、清康は大変に喜び「立葵は正忠の家紋なり、比度の戦に、正忠最初御方に参りて、勝将軍しつ、吉例なり、賜らん」と言い、その時から本多家の「立葵の紋」を松平家の家紋としました。そして、清康は自分の肖像画に立葵の紋を描きました。この史実は、徳川綱豊(のちの家宣)の命により、新井白石が編集した「藩翰譜」に記述されています。
 そして、この記述を裏付けるように、清康の肖像画(岡崎市指定文化財)には、「立葵の紋」が描かれ、今も岡崎市の随念寺に遣されています。本多家の「立葵の紋」は「ニ葉葵」という植物の葉を原形にしたもので、京都賀茂神社が神紋としていましたが、本多家の先祖・藤原光秀が賀茂神社の社職であったことから、本多家も「立葵の紋」を用いるようになりました。
 このように歴史をひもとけば、本多家から松平家へ移った「立葵の紋」が後に徳川家康に継がれ、徳川家の「葵の紋」になったと考えられることからも、松平家(徳川家)が、家紋を決定する舞台となった小坂井地域がその発祥のゆかりの地として注目されることになったのです。